独り言 吉本ばななのTSUGUMIを読んで…
... 「たとえば、地球にききんが来るとする」
「それで食うものが本当になくなった時、あたしは平気でポチを殺して食えるような奴になりたい。もちろん、あとでそっと泣いたり、みんなのためにありがとう、ごめんねと墓を作ってやったり、骨のひとかけらをペンダントにしてずっと持ってたり、そんな半端な奴のことじゃなくて、できることなら後悔も、良心の呵責もなく、本当に平然として『ポチはうまかった』と言って笑えるような奴になりたい、ま、それ、あくまでたとえだけどな」...
これ、この作品の中の18歳の少女が言う台詞だ。
わたしはここで、頭がガーンと殴られたようにはならなかったが、
これっ!まさに私の言いたい気持ちじゃん、と思って、びっくりした。
吉本バナナは1987年、「キッチン」を書き、その翌年1988年にこの
「TSUGUMI}を連載し始めたとあった。
恐るべし!それにしても50代の私がやっと、たどり着いたような心境が
すでに20代前半で、私と同じような思いかどうかはよく分からないが、
小説の中で18歳の少女に語らせることが出来るなんて。
この小説の最後の解説でも上記のパートは、この主人公が語る様子が、
坂口安吾の「夜長姫と耳男」の夜長姫のようにカッコいいとある。
(解説を先に読まなくてよかった~)
この夜長姫は知らないが、そうか、
これってカッコいいのか?と不思議だった。
私はカッコいいとは思わず、ただ人生の真髄みたいなものが語られているよなぁ、という程度、
だけど、吉本ばななはこれを言いたいために
この小説があるみたいだなぁという思いは強かったが。
もし、この台詞がカッコよかったとして受け入れられているとすると、
それは若い頃って世の中の大人たちの欺瞞性を見て取って
言わせたようにしているという、意味なのかもしれない。
私も若い頃に読んでいたら、きっと、これっカッコいいと思ったかも?
だけど、今の私には何か突っ切っていくと、そんな心境になるのが
オチ?で、そこに至るまでのいろんな葛藤があるだけの事よね、
という簡単な結論なだけです。
「それで食うものが本当になくなった時、あたしは平気でポチを殺して食えるような奴になりたい。もちろん、あとでそっと泣いたり、みんなのためにありがとう、ごめんねと墓を作ってやったり、骨のひとかけらをペンダントにしてずっと持ってたり、そんな半端な奴のことじゃなくて、できることなら後悔も、良心の呵責もなく、本当に平然として『ポチはうまかった』と言って笑えるような奴になりたい、ま、それ、あくまでたとえだけどな」...
これ、この作品の中の18歳の少女が言う台詞だ。
わたしはここで、頭がガーンと殴られたようにはならなかったが、
これっ!まさに私の言いたい気持ちじゃん、と思って、びっくりした。
吉本バナナは1987年、「キッチン」を書き、その翌年1988年にこの
「TSUGUMI}を連載し始めたとあった。
恐るべし!それにしても50代の私がやっと、たどり着いたような心境が
すでに20代前半で、私と同じような思いかどうかはよく分からないが、
小説の中で18歳の少女に語らせることが出来るなんて。
この小説の最後の解説でも上記のパートは、この主人公が語る様子が、
坂口安吾の「夜長姫と耳男」の夜長姫のようにカッコいいとある。
(解説を先に読まなくてよかった~)
この夜長姫は知らないが、そうか、
これってカッコいいのか?と不思議だった。
私はカッコいいとは思わず、ただ人生の真髄みたいなものが語られているよなぁ、という程度、
だけど、吉本ばななはこれを言いたいために
この小説があるみたいだなぁという思いは強かったが。
もし、この台詞がカッコよかったとして受け入れられているとすると、
それは若い頃って世の中の大人たちの欺瞞性を見て取って
言わせたようにしているという、意味なのかもしれない。
私も若い頃に読んでいたら、きっと、これっカッコいいと思ったかも?
だけど、今の私には何か突っ切っていくと、そんな心境になるのが
オチ?で、そこに至るまでのいろんな葛藤があるだけの事よね、
という簡単な結論なだけです。